「C1ランナー外伝」全盛期の首都高を生きた男のリアル【公道最強伝説】

ルール無用、時間限定、1周14.3kmの「700円サーキット」

かつて、関東最大規模のストリートステージとして君臨した首都高都心環状線、通称C1。数多くの伝説を生み出したその場所は華やかな都会にありながら、どこかセピア色の雰囲気が漂う独特な空間と言える。今回紹介するのは、そんな伝説の「700円サーキット」に魅せられた男の物語だ。

第二世代GT-Rの存在が全てを変えた

開口一番、「昔から峠でもゼロヨンでもサーキットでも、とにかく走るのが好きだったから」と男が切り出す。

『C1』と呼ばれる首都高都心環状線に通うようになったのは、一緒につるんでいた仲間から、「今、盛り上がってるらしい」という話を聞いたから。時は1980年代後半、男は20代半ばだった。

当時の愛機はFC3S。ブーストアップに始まりタービン交換、サイドポート拡大と仕様変更を繰り返し、腕にも覚えがあったことでC1での戦闘力をメキメキと上げていった。

「C1は巧い奴が外回り、そうでない奴が内回り…なんてよく言われるけど、実際はちょっと違った。パワーのあるクルマが外回りに集まってたという方が正しいかな。内回りに比べるとRの大きいコーナーが多くて、必然的にパワー勝負になるレイアウトだったから」。

板橋本町から5号池袋線に乗り、竹橋JCTでC1に合流。メインで走っていたのは土曜日の深夜25~27時だ。

「今とは全く事情が違って、土曜日のその時間帯は交通量がほぼゼロ。外回りを1周する間、遭遇した一般車は2台だけなんてこともあったくらい」。

そんな男の前にC1の勢力分布図を塗り替える衝撃的な1台が登場する。BNR32だ。

「同じFCや70スープラ、S13シルビア、後から出てきたFDとは勝負できたけど、BNR32には全く歯が立たなかった。それでも3年位はFCでなんとかしようと思ってたし、パワーを求めてJZA70に乗り替えたりもしたけど、結局駄目だったね」。

やがて男は友達に借りたBNR32でC1に繰り出し、その異次元の走りを体感。それをきっかけにアンチGT-Rからシンパへと傾倒することになった。

「パワーがあって安定感も抜群。走り終わった後、これには敵わないし、もうFCで無駄な抵抗はやめようと。“BNR32のライバルはBNR32しかいない”と思った」と男は回想する。

こうして始まったGT-RでのC1アタック。自らチームを結成し、1995年にBCNR33が登場するとすぐに乗り替えた。

「33はVスペック。ホイールベースが延びただけでなく、ABSが進化してリヤにはアクティブLSDも入ってたから、当時のC1外回りでは32より速く、しかも安定して走れた」。

しかし、1990年代後半になるとC1を取り巻く状況が変わってきた。交通量の増加に加え、次第に厳しさを増す警察の取り締まり。それに伴い純粋にC1だけを攻めるのではなく、走るコースも変化した。銀座からスタートして11号台場線でレインボーブリッジを渡り、湾岸線を一瞬走って辰巳PAに。そこからスタートして9号深川線で300km/hを目指す。

「世の中と自分の常識がズレていることは自覚してた。相当度胸を据えないと、あんなところは走れないから。でも、そんな覚悟を引き換えにできるくらい楽しかったのは確か。それと自分が死ぬのは凄く覚悟してた。メチャクチャやってたから仲間内でもしょっちゅうクラッシュはあったけど、自分のチームで亡くなった奴は最後までいなかったね。今思えば、そんなのは“たまたま”なんだけど…」。

その頃、各チームでトップを張るメンバー達が一つの集団で走るようにもなった。ナイトシフト、C1スペシャルランナーズ、マッドドッグなどから集まった精鋭は10数名。今なら一発逮捕確実な常軌を逸したスピードでC1を駆け抜けた。

そして1999年、第二世代GT-Rの集大成とも言えるBNR34が登場。ゲトラグ製6速MTの搭載が、C1外回り霞が関トンネル手前での300km/h到達を現実のものにした。

「ただ、状況的に、もう今までのようには走れないなと感じ始めて。C1から降りる決心をしたのは34での、とある大クラッシュがきっかけ。2004年のことだったかな。今のR35は速すぎるから、あの頃と同じことをやるにはリスクがあまりにも高い。俺らは良い時代に走れたなとつくづく思うよ」。

C1を降りて20年弱。「あれほどスリルと刺激に溢れたステージは他に存在しない」と断言する男は、それ以来、C1アタックを封印し続けている。

「首都高伝説」2001年、全盛期のC1外回りで最速と呼ばれた紅きBNR34

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