「ECUチューンの先駆者にして、チューニング界の異端者」マインズ・新倉通蔵【チューナー伝説】

チューナーのサイドストーリーを元に、人物像に迫る連載「チューナー伝説〜挑戦し続けてきた男達の横顔〜」。第8回目は、ECUチューンにかけては無類の強さを誇る、マインズ・新倉通蔵氏だ。

クルマの運転も知識も少年時代に詰め込む

「免許を取る前からバイクは持ってたし、父親の目を盗んで自宅のクルマにも乗ってたよね。“エンジン暖めておくよ”とか言って、自宅側の直線で何キロ出るか…なんてやってたな。ある日、その様子を父に見つかってぶん殴られたっけ」と、新倉さんは少年時代を振り返る。

自動車免許を取る前すでに、人並以上の運転スキルを持っていたが、両親からの言い付けで教習所には通った。18歳の誕生日に仮免許を取得して、その後の実技も学科もオール満点。史上最短での免許取得に、教習所から表彰されたと言う。

「それくらいクルマが好きだったし、運転もメカの理論も好きだった。初めてのクルマは父親のケンメリで、2台目も父親のダルマセリカだったんだけど、注文してきたのが下位グレードのSTだと知って“そんなの話にならないからGTに変えてくれ!”って一緒にディーラーに行ったよ」。

このセリカは愛車みたいなもので、3年間で12万キロも走り込んだ。バイトに勤しんではガソリン代を稼ぎ、車高を下げ、レーシングタイヤや小径ハンドルに換えて…と「もはや父親が乗れないクルマになってたな」というほどに、チューニングに明け暮れたそうだ。

BS在籍中に立ち上げたプライベートガレージ

大学卒業後、新倉さんはブリヂストンタイヤ販売に就職。ちょうどポテンザブランドが立ち上がり、好きも高じて東京にも営業で飛び回るなど会社から重宝されたそうだ。また、この頃にはトムスの舘信秀氏(代表取締役会長)や関谷正徳氏(レーシングドライバー)、東名パワードの鈴木修二氏(顧問)といったレースやチューニングの世界の錚々たる面々と知り合うことができたと言う。

そして、「まだBS在職中の1983年に立ち上げたのがプライベートガレージの『マインズガレージ』。近所のクルマ好きの仲間たちが集まって作業をして、夜な夜な箱根に走りに行ってたよ。当時はカリーナ2000GTをチューニングしていたんだけど、この頃に流通していた鋳造のピストンはまるで強度不足で、これは自分たちで作らなきゃダメだ…ってパーツ開発にも取り組み出したんだ」と、いよいよマインズが本格始動することに。

銀行からの融資を受けてマインズは一気に加速する

1985年にBSを退社してチューニングショップ『マインズ』を設立。燃料補正用のサブコン『フューエルハッカー』を始めとするオリジナルパーツも充実し、注目度も高まってきた。

しかし、「会社は成長しようとしているのに何しろ金がなかった。そんな時、あさひ銀行が無担保で5000万円を貸してくれたんだ。ビックリしたよね。後で聞いたら、銀行が調査に行った先々で“あそこの会社は当たる”と言われたそうで、本当に嬉しかったよ。無担保だけに利子は高かったけど、おかげで開発は捗ったね」と新倉さん。
資金を得てマインズは飛躍し、『VX-ROM』誕生に繋がっていく。

必死に学び情報収集してECU解析に挑む

1988年、R31スカイラインGTS-RのECU解析に成功し、オリジナルセッティングを施した『VX-ROM』が発売された。

「それまでコンピュータはブラックボックスとされていたけど、味方に付けなくては…と思って全力で解析に挑んだよ。別にコンピュータに詳しかったわけじゃない。頭は悪い方じゃないけど、死に物狂いで勉強して解析を進めていったんだ」と新倉さん。

続けて「レースの現場でメーカーの技術者がしていることを探ったりもした。日産の渡邉衡三さんや伊藤修令さんといった頂点に立たれる方々との出会いも大きかったよね。真面目にやっていると凄い人たちが目を掛けてくれるんだよな」。

独特のキャラクターが雑誌メディアにハマる

タービンを含め完全ノーマルでVX-ROMのみという仕様のGTS-Rが、谷田部最高速テストで244.9km/hを記録。VX-ROMの登場はそれまでのチューニングの常識を覆し、扱いやすく壊れにくいハイパフォーマンスを実現し、一気にECUチューニングへの感心が高まっていく。同時に雑誌などの取材も増えていく。

「メカニック出身のチューナーばかりの中で、坊ちゃんタイプに見える俺は異質の存在だっただろうね。“オメーは何ができるんだ?”って空気が凄かったもん」と新倉さん。

また、走り屋チューナーから“お前は走れるのか?”と挑発されたこともあったそうだ。ところが27歳の頃から4年ほど、レーシングカートのSクラスに参戦して全日本の予選に行くほどの経験を持つ新倉さんは、サーキットのドライビングでも周囲を圧倒して見せた。

「そんなこともあって、OPTION誌やCARBOY誌なんかが面白がってくれたんだよね」と、新倉さんは当時を懐かしむ。

70歳を迎えるも、まだまだ現役続行宣言

その後、第二世代GT-Rのチューニング全盛期では、筑波サーキット・スーパーバトルで12年連続チャンピオンを獲得。R35型GT-Rが発売されると海外マーケットも視野に入れた展開を開始し、その名を世界に知らしめていく。また、近年は古巣でもあるブリヂストンのタイヤ開発に参加し、ポテンザRE-71Rという最強スポーツラジアル誕生の一端を担うなど、マインズの活躍は枚挙にいとまがない。

「グランツ―リスモの山内さん(ポリフォニーデジタル代表取締役)がゲームにウチのBNR34を登場させてくれたり、ポール・ウォーカーがマインズを訪ねてくれてR35GT-Rを絶賛してくれたり、振り返ってみると本当に色んな人との出会いに恵まれたよね」。

最後に「今年で70歳になったけど、身体は健康そのもの。もちろん、これからも開発の最前線に立つつもりだし、サーキットを走れって言われたら走ってみせるよ。ちょっと遅くなったかもしれないけどさ」と、まだまだ後進に道を譲るつもりはなさそうだ。

プロフィール
新倉通蔵(Michizo Niikura)
ショップ:Mine’s
出身地:神奈川県横須賀市
生年月日:1952年1月25日

取材協力:マインズ 神奈川県横須賀市林5-7-25 TEL:046-857-3313

【関連リンク】
マインズ
http://www.mines-wave.com

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