【最高速今昔物語 -東名レースから湾岸へ-】魂の回顧録 Special Discussion【雨宮勇美(RE雨宮)、大川光一(元トラスト)、吉田栄一(ミッドナイト会長)、稲田大二郎(暴走機関車)】

公開日 : 2018/11/21 19:50 最終更新日 : 2018/11/21 20:00

 

「雨さんや大川さんの背中を追って、ボクはミッドナイトを立ち上げたんです」

吉田栄一

 

 

ミッドナイト伝説

 

雨宮:湾岸では、やっぱ吉田くんとこのチームがイチバン有名だったよね〜。オレも一時期はいってたし(笑)。

 

吉田:ビックリしましたよ。ある日、仲間から「雨さんがミッドに入会したがってる」という話を聞かされて「ウソ〜!?」って。

 

雨宮:速い子が多かったし、楽しそうだったからさ!

 

吉田:でも、雨さんにはいろいろアドバイスを頂いたりして……、ホント勉強させてもらいました。

 

大川:ミッドナイトといえば、山田ってのがいたよね。たしかABRチューンのS130ツインターボ乗ってて、いつも愛車をピッカピカに磨いてたっけ。

 

吉田:ええ、初期メンバーのひとりですね。

 

雨宮:けっこう速かったよね、カレ。キッチリ踏んでたしさ。

 

大川:何度か湾岸で追いかけまわされたことがあったんだけどさ。そのたびに路肩を走って、ヤツのZめがけて石を巻き上げてやったの覚えてる(笑)。

 

雨宮:あぁ、オレもそれよくやった!

 

 

「あの頃を生きた最高速ランナーは、みんな“魂”で走っていた」

稲田大二郎

 

稲田:ところで、ミッドナイトっていつ結成したんだっけ?

 

大川:たしか、東名レース全盛期にはもうあったハズ。ミッドナイトのステッカーを貼ったポルシェを見たから。

 

吉田:はい。チームの立ち上げは1982年です。雨さんや大川さんに、すこしでも近づこうと思って…。

 

雨宮:近づくどころか、オレ湾岸で一度抜かされちゃってるし(笑)。

 

稲田:吉田くんの911ターボは、ポルシェ本社が手を入れた正真正銘のワークスチューンドだからね!あれはスゴイよ。

 

吉田:でも、谷田部では最後まで結果を残せなかった…。目標は200マイルオーバーだったにもかかわらず、302キロでしたから。もちろん、最初から最後(1982年〜1992年)までアタッカーを務めてくれたDaiさんには感謝してますよ。最後の年に、ボクのためだけに谷田部を借り切ってくれたことは一生忘れません。

 

稲田:10年ものあいだ、愛車の可能性に賭けて、夢を見続けるヤツなんてザラにいない。なにより、あのポルシェには不思議な魔力があってさ。どうにかして記録を出してやりたいと思ってたんだよ。

 

大川:あの911の存在に関しては、記録よりも記憶だよ。

 

雨宮:それに、谷田部で記録を出すのって本当に難しいんだから。オレだって、目標の300キロ超えを達成するまでには、丸4年の歳月がかかったんだよ!? たまんね〜っての!

 

稲田:雨さん、悩んでたもんね。「なんで出ね〜んだ!」って。RS山本と大川さんがいたトラスト、そしてRE雨宮は最高速御三家と呼ばれてたんだけど、そのなかで300キロを超えてなかったのが雨さんとこだけだったから。

 

吉田:記録達成時って、やっぱりこみ上げてくるものがありましたか?

 

雨宮:いや〜、あのとき(1985年1月)は13Bサイド+ツインターボのSA22Cだったんだけど、記録が出た瞬間はウレシイというより、背中に重くのしかかっていたものが吹っ飛んだような気持ちだったね…。

 

大川:ボクもTD06ツインターボのソアラで300.5キロを出した瞬間(1984年12月)は、そんなかんじだった。

 

稲田:大川ソアラね(笑)。見た目ふつうのストリートチューンドが大台を突破したもんだから、当時はメチャクチャ話題になった。

 

吉田:アレはインパクトありましたよ。

 

雨宮:あのソアラとは、よく首都高で勝負したね〜。オレはTD07S組んだFCだったっしょ。

 

大川:箱崎ジャンクションの手前でハデに横転したFCね(笑)。

 

一同:(大爆笑)

 

雨宮:カンブ〜、あんときはサスガにやばかったんだから!! マジで死ぬかと思ったんだよ!?

 

稲田:雨さんは事故じゃあ死なないよ(笑)。

 

 

雨さんの珍道記

 

大川:よくよく考えてみると、300キロの競走がはじまったのって湾岸からだったよね。事故も多かったけど。

 

吉田:ええ。もうアメ車やイタ車では勝てないから、国産とポルシェの一騎打ちになってましたから。

 

雨宮:ディズニーランドんとこの左コーナーを、260キロオーバーで突っ込んでくんだもん。ポルシェ以外の外車で、国産チューンドについてこれたヤツなんていなかった。

 

稲田:時期的に谷田部全盛期と重なるからな、湾岸は。いま考えると、あのころって双方がうまくリンクしながら、日本車チューニングの技術が飛躍した『成長期』だったんだよ。そしてBNR32がデビューして、その流れはさらに加速して…。

 

大川:320キロ時代が到来した。チューニング業界にとっての黄金期は、そこからはじまったんだよね。

 

雨宮:でも、湾岸の盛り上がりかたは東名なみにスゴかったよね。市川PAにはギャラリーが溢れ返ってて、クルマを動かすのも大変だった。ショップのデモカーもたくさんいたっけ。

 

吉田:市川の某ファミレスは、走り屋が占領するもんだから、出入り禁止になりましたもんね。

 

大川:湾岸で忘れられない事件といえば、トラストのデモカーだったGT-R(BCNR33)を雨さんにレンタルしたときのことだね。雨さん、助手席にだれかを乗せたまま湾岸から丸見えのラブ□テルに入っちゃったの!!

 

雨宮:そーそー。んで、カンブに電話したんだよね。

 

大川:…そうだよ。『カンブゥ、ちゃんとトラストの宣伝しといたからさ!ヘヘヘ!!』って。ゾッとしたね。で、『これは夢だ、忘れよう…』と思った。

 

雨宮:若気の至りってやつッス(笑)。

 

稲田:雨さんは昔から変わんね〜よなぁ。大川サンから借りたグレッディRX(BNR32:トラストの伝説的デモカー)で、フェラーリ軍団をアオリまくったこともあったじゃない(笑)。

 

大川:あんときも大変だったんだよ〜。アオられたフェラーリ乗りから会社に電話がきてさ。「告訴してやるゾォ」なんて脅してきやがって。

 

雨宮:それも若気の至りッス。

 

 

狂走族であるかぎり

 

吉田:あの当時ってみんな何事にも必死でしたよね。とかく、走りに関しては命を賭けていた。

 

雨宮:変な話、死んじゃうヤツもいたからね。でも、だれもそれを笑わなかったし、間違ってるとも思わなかった。大好きなクルマで前だけを向いて走れれば、それでよかった。だからこそ、生活費を切り詰めてでもクルマのチューニングに心血を注いだんだ。

 

稲田:今の若い走り屋たちにはバカげてると思われるだろうけど、あの時代を生きた最高速ランナーたちは、みんな“魂”で走っていた。そして、それが本当にカッコよかったんだ。

 

大川:最高速って、アナログの世界なんだと思う。“根性で踏む”とか“命がけで勝負する”なんて精神論、いまどきの若いコたちには理解できないでしょ。でもあの時代はそれがすべてだった。

 

雨宮:オレは今でも湾岸を走ってるけど、追っかけてくる元気なヤツはほとんどいないね。「雨さんは速いからついて行けない」なんて言われるけど、昔のヤツラはちゃんとついてきたし、ブチ抜いてくヤツもいたんだから。やっぱ気合が足りない。

 

吉田:雨さんほど気合入ったヤツなんているんですか?

 

雨宮:オレもう63歳だよ!? ヨボヨボだよ(笑)。

 

稲田:なんていうかな、堂々と“最高速をやれ!”とは言わないけど、時代に関係なくクルマが好きならスピードに魅せられて当然。だったら、その欲望に真正面から向きあってみてもイイんじゃないか? とボクは思う。

 

吉田:そして走る以上は、真剣に攻めてほしいですよね。

 

大川:アレコレ御託をならべるくらいなら、考えずに全開で突っ走れってこと。

 

雨宮:そっ。オレたちはしょせん世間様からは認めてもらえない、狂走族なんだから!

 

 

 

90年代目前にして最高速ステージは東名から湾岸へと変わった。その後、国産チューンドの進化によって、いつしか湾岸では300キロの攻防戦が繰り広げられるようになったのだ。

 

東名レース末期のようす。80年代中盤あたりからスタート地点の海老名SAには警察官の姿が目立つようなった。東名レースはその直後に終わる。

 

RE雨宮が1987年に製作したロータスヨーロッパSPL。ドライサンプ化された13Bをミッドに搭載した夢のスーパーチューンドだ。雨さんはこのマシンの完成直後にミッドナイトに入会した。

 

湾岸とともに盛り上がったのが首都高。OPTIONも創刊直後(1981年12月号)に取材を敢行している。当時のラップタイムは「トランザムで7分くらいだったかな」とのこと。

 

雨さんは、いまでも時間さえあれば湾岸へと足を運んで全開で走る。還暦を過ぎようとも、チューニングカーに対する想いは、あのときのままだ。